2019-02-27 第198回国会 衆議院 予算委員会第三分科会 第1号
そのことを一番誰よりも汗を流して真剣勝負で取り組んでおられたのが、御存じのとおり河野一郎先生で、大臣の祖父の方であられますけれども、私、これをいろいろ調べてみました。
そのことを一番誰よりも汗を流して真剣勝負で取り組んでおられたのが、御存じのとおり河野一郎先生で、大臣の祖父の方であられますけれども、私、これをいろいろ調べてみました。
今から、古くなりますが、約五十五年前、昭和四十年、私が早稲田大学の三年生のとき、雄弁会の幹事長を務め、その夏、大隈講堂で河野一郎先生の追悼演説会を開催いたしました。 このとき、河野派を継承いたしました中曽根先生のお言葉が、その颯爽とした雄姿とともに、今も私の脳裏に焼き付いています。 恩師中曽根は、我々学生に向かってこう言いました。
戦後の北方領土の歴史をひもときますと、旧ソ連と我が国との国交回復交渉に御尽力され、日ソ共同宣言を取りまとめられた先哲であります河野一郎先生、そして外務大臣であられました河野洋平先生に引き続きまして、河野大臣には引き続き日ロ間に横たわります厳しい懸案に取組を続けていただいているところでございます。
石橋湛山先生、河野一郎先生、松村謙三先生、三木武夫先生、こういう方々が日米安保条約の採決のときでさえも棄権や欠席をされております。 そこで、最後に外務大臣にお尋ねしますが、この戦後政治における宏池会の果たしてきた、いろいろな外交的な岐路がありましたが、その意義、そして、今回の法案、本当にこれでいいと思いますか。責任ある立場にいらっしゃる大臣のお考えをお聞かせください。
きょうは、河野一郎先生に大変御多用のところをお越しいただきまして、参考人として私どもの質問にお答えいただけるということで、大変感謝申し上げる次第でございます。 通告に従いまして、早速質問に入らせていただきたいと思います。
○池田治君 河野外務大臣のお父さんの河野一郎先生は、昭和二十年代の終わりごろロシアが初めて漁業制限をやってきたときに、単身モスクワに乗り込んで時の権力者と渡り合って、そして堂々と日本の漁業資源量というものを獲得した先生だと私は認識しておりますので、多分その息子さんの外務大臣もそれ以上のことをやってくれるだろう、こう期待しておりますので、ぜひよろしくお願いいたしまして終わります。
しかし、問題は、どこにこれを移すかというような問題も考えられるわけでありますが、昔、河野一郎先生があの筑波学園問題で、今筑波学園というのは相当な効果を発揮しておることは確かですが、あの学園都市をつくるについて、私も国土庁長官をやりまして、遅々として進まない、そしてあそこへ赴任をする人は単身赴任というような状況があった。
もちろん私は、治水という面で、一朝破堤をいたしまして洪水になりますならば、その環境というものはすごい悪い環境を生んでくることは事実でありまして、みずからもまた淀川なり大和川なりの治水対策委員長をいたしておりまして、時の建設大臣河野一郎先生と激論したのを今も覚えております。
実は、昭和三十年代でございました、私がまだ若き代議士時代、今は亡き河野一郎先生が我々若手を集められた。といいますのは、私は旧大野派でございますが、大野派、河野派の親睦会がございました。そのときに、我々若い連中に、当時はキャンベラブームでございました、オーストラリアの。
○国務大臣(天野光晴君) 遷都論、どの程度のどういう領域の遷都をやるかということでありますが、私のお師匠さんになるわけですが、河野一郎先生の持論ですと、東京都は七百万が精いっぱいだという話をされておりました。遷都することは簡単だと思います。
天野大臣から、かつての河野一郎先生の筑波研究学園都市構想を詳しく御披露いただきました。本当に敬意を表します。そういう発想と具体的な取り組みがまさに大事だと思いまして、今のような御提案も申し上げたわけであります。
○坂井委員 河野一郎先生の、教育は筑波、政治は富士山ろく、経済は東京とか、いろいろなあれがありましたですね。 それで最近、東京都知事の鈴木さんがこう言っているのです。
私のお師匠さんといいますか、河野一郎先生の提案は、東京都は七百万が限度だという主張をされておりました。何ぼ多くても八百万以上超えてはとてもそこに住む人に満足を与えるようなすべての問題はできない、私はそう理解しておるのです。
かつて河野一郎先生が食管問題のときに荒療治をなさろうとしましてあえなくつぶされたわけであります。全国列島農民の激しい怒りの中でつぶされたわけであります。 その後、大臣の皆さん方は、役人の主導型、事なかれの大臣の方、最近になりましてだんだんしり上がりに学究型の大臣が出てきましたと思いますと、実力派の大臣が今度あらわれてこられたわけであります。
それは、率直に申し上げますと、昭和三十九年の五月ごろ、私が宮仕えをさせていただきました今は亡き河野一郎先生がその構想を打ち上げたわけでございます。それで、ちょうど河野さんが亡くなられましてから私が二十五代目の建設大臣でございまして、テープカットをさせていただいて非常に感銘を、ある意味では仏のめぐり合わせだなというふうな、そんな気持ちで受けとめさせていただきました。
背、河野一郎先生にお聞きした話ですが、文部大臣というのは非常に難しい役目だ、それで、文部大臣になると、戦前のことですけれども、小学校、中学校から額を書いてくれと頼まれる。今でも我々はそういうことを頼まれます。
日本の場合は議院内閣制をとっておりまして、アメリカとは情勢が違いますが、第一次臨調の際に、あるいはその前におきましても、たとえば河野一郎先生あたりが予算編成権を大蔵省に置いていいかどうかというような一石を投ぜられたこともあります。
そうしたら開通するときに、数百人の人が日の丸を持って汽車の両側に立って拍手をして汽車を迎えたのでありますから、まあ汽車が通って日の丸持って万歳するくらいでありますので、これはやっぱり四カ月半とまったら大変なことだと思うんですが、私ども全く技術的にはわかりませんが、もっと短縮する方法が——一回、前の河野一郎先生が豪雪のとき私も現場でお供して話を聞いたんでありますが、現場へ行ったら、これは十日かかると言
かつて河野一郎先生のもとにおって、河野先生が親ソ的な政策をとられたときに、あなたはそれに真っ向から反対された。そして河野派を除名になったか除名になりかけたか、とにかく大騒ぎかあった。それからまた、この北京の問題を言うことか官民党でタブー視されておったときに、あなたは日中関係は推進すべきだと言った。そして党紀違反にかけられかかった。
河野一郎先生が池田内閣ができたときに新党をつくろうとされましたときに、河野先生が友人を集めて相談をなさいました。そのときに、当時河野先生の指導下にあった私と森清代議士と重政代議士がその席に招かれまして、新党をやるかやらぬかという話があった。そのとき私は、やるべきでない、そういうことを申した。その席に児玉譽士夫被告がおったと思います。
○中曽根証人 私のところへお話を持ち込まれたのは河野一郎先生で、そして、おまえは教育に熱心で、青年を教育しているからどうか、そういう話がありまして、会ってみたらいい青年でしたから書生にしたので、その背後に児玉譽士夫氏がいたかどうかは知りません。